ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化 > 文化財 > 大村市内の指定文化財一覧 > 長与俊達の墓
ここから本文です。
更新日:2024年1月10日
俊達は、寛政元年(1789年)藩の医者である長与知正の2男として大村に生まれました。父の跡を継いで、藩主大村純昌・純顕・純熈の3代にわたり仕えました。長崎に出て蘭学を学び、シーボルトのもたらした西洋医学を修め、当時最も恐ろしい病気であった疱瘡についても研究をしました。文政のころ、各地に疱瘡が流行し、大村藩でも困り果てていました。天保元年(1830年)正月、大村藩は俊達に疱瘡の治療や研究に取り組むよう命じました。古田山の疱瘡所が藩の研究所となりました。当時の種痘は菌を鼻から吸わせる方法で、危険が伴っていました。そこで、俊達は研究の結果、患者のかさぶたを粉にして水を加えたものを針で腕に植えつける方法をとりました。
さらに嘉永2年(1849年)オランダから長崎にやってきたモーニケから、疱瘡の菌を牛に注射して作り出した牛痘の種を譲り受け、日本で初めて牛痘ワクチンを使いました。その年の8月から、大村藩では牛痘法が義務づけけられました。
安政2年(1855年)66歳で亡くなりました。なお、近代医療制度の基礎を作った長与専斎はその孫にあたります。
よくある質問
お問い合わせ