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更新日:2024年1月10日
松林飯山は名を廉之助といい、天保10年(1839年)筑前国早良郡(現福岡市西区)に生まれ、9歳の時に母の郷里大村に移り住みました。3歳で文を書き、4歳から7歳にかけて、大学・論語・孟子・詩経など難しい四書五経を読みました。藩校五校館に学び、安政4年(1857年)19歳で昌平坂学問所に入り、成績優秀なため、詩文係に任命されました。安政6年(1859年)大村に帰り、五校館の学頭になったのがわずか21歳でした。
文久2年(1862年)には大阪に行き、昌平坂学問所時代の三秀才といわれた松本圭堂、岡千仭とともに雙松岡塾を開きました。大村に帰り、功により文久3年(1863年)五校館の校長に昇進し、藩内子弟の教育に情熱を注ぎ、勤王思想を広めました。
さらに学問だけでなく、藩士の思想的指導者として活躍しました。慶応3年(1867年)正月3日、何者かに襲われ命を落としました。29歳の若さでした。のち従四位を贈られ、吉田松陰とともに靖国神社に祭られました。
この墓は、飯山の遺徳を慕う門弟たちが建てたものです。
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