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更新日:2019年3月25日

玖島(大村)城跡

大村城

初代藩主大村喜前(よしあき)が文禄・慶長の役から帰った後、慶長3~4年(1598~1599年)築城してから12代藩主純熈(すみひろ)の代(幕末)まで、270余年間大村氏の居城でした。

その頃、国内では秀吉が死去し、再び争いが起こる気配となっていました。大村では、それまでの居城三城城では鉄砲や大砲を使った新しい戦に対応できず、新しい城造りが急がれていました。そこで、喜前(よしあき)が朝鮮出兵のとき立てこもった順天城(ジュンテンジョウ)が海に面しており、大軍に囲まれても守りやすかった体験を生かして、三方を海に囲まれた要害の地玖島(くしま)を選んで本城を築き、三城(さんじょう)城よりここに移りました。 初め北側を大手とし、石垣は自然石を使った野面積みの方法で築かれました。

慶長19年(1614年)2代藩主純頼(すみより)が大改修を行い、現在のように、大手を南側に移し、石垣を打ち込み接ぎ(はぎ)と呼ばれる工法で、角や面を加工し、高く反り返る石垣へと造りかえました。喜前が加藤清正と親しかったことから、この改修にあたり指導を仰いだと伝えられています。本丸には天守閣はなく、平屋の館がありました。城の石垣は、当時のまま良く残っており、特に南堀に面した石垣の美しい勾配は壮観です。

玖島城には天守閣はなく、本丸には館造りの屋敷がありました。また、本丸を中心に6つの櫓があり、周囲には、東側に広い角堀をつくり、さらに長堀から南堀、そして、西側に乾堀をめぐらしました。また、北側搦手の下の海岸は遠浅で敵が海から来たときに備え、海岸近くには海中4mの深さの捨堀がめぐらされたと言われていて、一見平凡そうに見えても難航不落の名城でした。また、御船蔵(おふなぐら)や御船蔵、新蔵波止(しんぐらばと)、船役所跡など海運に関する施設が多く残っており、海城としての特徴をよく残しています。

明治2年、廃城になるまで戦火を受けることはありませんでした。明治17年(1884年)、本丸跡に歴代の藩主を祭る大村神社が建てられ、現在では桜・つつじ・花しょうぶが咲き競う大村公園として広く市民や観光客にも親しまれています。

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