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更新日:2020年4月3日
この城は、牢屋坂(ろうやざか)を登りつめた右側の民家、佐藤氏宅の台地にあり、広さは約4960平方メートルありました。
大村家の史料によると、天慶(てんぎょう)4年(941年)天慶の乱で討たれた藤原純友の孫の直澄(なおずみ)が、伊予の山中で育てられ、後に罪を赦されて朝廷より彼杵・高来・藤津の三郡を賜りました。
正暦(しょうりゃく)5年(994年)大村に下向して寺島に上がり、久原城に入って大村市を名乗ったと伝えられています。大村家15代純治(すみはる)(1455~1456)の頃、寿古町にある好武城に移ったといわれています。
しかし、最近、新たな資料などの調査によると、大村氏は、藤津荘園の平姓大村氏が武士団となって、戦国時代の初期の戦乱により、藤津を追われ彼杵郡に入り領主になったという有力な解釈も出ています。
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