ここから本文です。
更新日:2020年4月3日
三十七士とは、明治維新の時、大村藩を尊王倒幕運動に導く原動力となった人達のことです。
嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航して以来、「開港か攘夷か」をめぐり国内は騒がしくなりました。これに尊王派と佐幕派とがからみあって政局が混乱し、討幕運動が激しくなってきました。大村藩でも、江戸に遊学した若くて気鋭の武士達は時代の動きを敏感に察していました。文久3年(1863)12月、松林飯山や渡辺昇を中心にして藩論を尊王倒幕に導こうとするグループが生まれました。秘密結社でしたから構成員は親兄弟にも漏らさぬようにし、運動をすすめました。人数は次第に増加し37人になりました。家老の針尾九左衛門を盟主とし、藩主の純熙の側近の稲田東馬(又左衛門)は藩主との意思の疎通をはかりました。
元治元年(1864)意見は誰でも述べられるよう道を開き、同年、藩主自ら藩論を尊王に統一する方針を打ち出しました。また、兵制を改革し西洋銃隊を編成しました。外に対しては長州征伐の中止、江戸参勤の中止、藩長との提携などを計画し、戊辰の役には倒幕軍を派遣しました。この功により3万石の賞典を受けました。明治36年、大村純雄伯は、この原動力となった三十七士の碑を死没順に21基建てました。その後、順々に追加され、大正6年に全部で37基になりました。
(向かって右から、没した順に建てられています)
よくある質問
お問い合わせ