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更新日:2020年4月3日

長与専齋

長与専齋

日本の近代医学と医療制度を確立し、衛生という言葉を初めて医学に使用。

大村藩の医者、長与中庵の家に生まれます。専齋が4歳の時に父が亡くなり、祖父の俊達に育てられます。

俊達は、天然痘の予防など大村藩医として大活躍した医者であり、専齋のその後の活躍は、この祖父の影響が大きかったと思われます。

専齋は、五教館で学んだ後、大阪にあった緒方洪庵の適塾に通い、蘭学を学びます。6年後に、長崎に行き、オランダ商館医ポンペの教えていた医学伝習所に入り、医学の勉強を始めます。

明治となり長崎医学校ができると、専齋は学頭として、我が国最初の医学校の設立に大変力を注ぎました。

明治4年には、伊藤博文の推薦で、アメリカやヨーロッパの医療制度の視察に行き、帰国後、医務局長に就任します。この時作った「医制」は医者の許可制度や医学教育など現在にも通じるもので、近代医学制度は、専齋の力によるところが大きかったと言えます。

明治8年、衛生局初代局長に就任、今までは普通に使われるこの「衛生」という言葉は、このとき専齋が考えたものです。衛生局では、天然痘のなどの伝染病予防を進めていきます。

明治10年、日本にコレラが上陸・流行するようになってからは、菌が広がらないよう、上下水道の整備を進めていきます。

専齋は、明治35年(1902年)に65歳で亡くなります。

専齋が大村で過ごした屋敷の一部は「宜雨宜晴亭」と呼ばれ、現在国立長崎医療センター内に移設され、残っています。

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