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更新日:2018年3月15日

玖島城跡

大村市民に親しまれている大村公園は、桜や花菖蒲の季節には県内・県外からもたくさんの人が見物にきます。この公園は、初代藩主大村喜前(よしあき)が築き、12代藩主純熈(すみひろ)まで270年あまり、大村藩の政治の中心になった玖島城の跡です。

戦国時代の終わりごろから、鉄砲が使われるようになると、戦争の方法が大きく変わっていきました。鉄砲や大砲から城を守るため高い石垣を築き、水をはった堀を巡らせていきます。そのため城を築く技術が大変発達し、櫓(やぐら)や塀をつくり、天守まで建てるようになりました。城づくりの専門家や職人集団も生まれました。また、領主は家来を城下に集め、城下町を造るのに便利な所へ城をつくる必要がありました。こうして今までの山城から、平山城(ひらやまじろ)や平城(ひらじろ)に変わっていきました。

こうした中、天下を治めていた豊臣秀吉が亡くなると、秀吉のあと誰が天下を取るか決まらず世の中が不安定になり、大名たちは戦乱にそなえて城を築きはじめました。喜前も三城城に替わる新しい城づくりにかかりました。始め杭出津の地を選び、築城を始めましたが、玖島の地が城に適していることがわかり、玖島に築城することになりました。玖島が選ばれた理由は、三方が海に囲まれ、敵から守りやすく、敵が攻めにくい海城をつくるのに適した場所だったからです。

大村喜前は、秀吉の朝鮮出兵の際、名護屋城や壱岐の勝本城の築城を手伝い、中央の新しい城づくりの技術に触れています。また、朝鮮の地では、各地に日本式の城を築き、戦いの拠点にしてきました。このような城は倭城(わじょう)と呼ばれています。喜前は順天の倭城に立て籠もったとき、海に囲まれた城は守りやすく攻めにくいとの教訓を学んだといわれ、このような経験が玖島城の築城に活かされることとなります。

玖島城築城の工事は慶長3年(1598年)の末から始まり、翌年の慶長4年(1599年)に完成しました。築城されたころの大手口は城の北側にあり、大手口に入る道は大村小学校と寺井医院との間に道がのびていました。今でも自然の石をつんだ野面(のづら)積みの石垣と土をかためた土塁が残っています。

慶長19年(1614年)に、2代藩主純頼(すみより)のとき、玖島城の大改修が行われました。改修については、肥後の大名で熊本城を築いた加藤清正が喜前と親しかったことから、清正の指導を受けたといわれています。この改修で、大手口を南側に移し、大手門周辺は石を加工した「打ち込みはぎ」とよばれる方法で石垣を築きました。今も大手口から板敷櫓の方に向かって美しい曲線をした石垣が残っています。城の中は本丸、二の丸、三の丸からなり、6つの櫓(やぐら)を建てました。本丸には天守閣はなく、藩主の館や藩の政治を行う場所がおかれました。城のまわりには、堀を巡らし、海の中にも捨堀などを巡らして敵が簡単に近づけないようにしました。

城の周辺に藩の政治をとりしきる藩会所(はんかいしょ)、藩主の別邸の桜田屋敷、藩内の産物の取引にあたる産物会所、土木工事などにあたる普請役所、藩の学校である集義館(のちに五教館)などが建てられました。海側には米を貯蔵する新蔵、その積みおろしをする新蔵波止などがつくられました。また、藩主の船を納めたお船蔵もあり、現在もその跡を見ることができます。

玖島城は一度も戦火にあうことはなく、明治4年(1871年)の廃藩置県によって役目を終えました。

 

板敷櫓と南堀の写真

板敷櫓と南堀

 

玖島城の平面図

玖島城平面図(「大村の歴史」から抜粋)

所在地

大村市玖島1丁目(大村公園内)

アクセス

JR大村駅からバスで約10分(公園入口バス停下車)、徒歩約3分

長崎自動車道大村インターから車で約15分

よくある質問

お問い合わせ

産業振興部観光振興課交流推進グループ

856-8686 大村市玖島1丁目25番地 本館2階

電話番号:0957-53-4111(内線:241)

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