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更新日:2016年3月25日

松林飯山

松林飯山

幕末大村藩において活躍した三十七士の中心的人物

松林飯山は名を廉之助とい、天保10年(1839)筑前国早良郡(現福岡西区)に生まれ、9歳の時に母の郷里大村に移り住みました。3歳で文を書き、4歳から7歳にかけて、大学・論語・孟子・詩経など難しい四書五経を読みました。藩校五教館に学び、12歳で小給に取り立てられ、14歳の時に参勤交代にも従いました。

安政4年(1862)19歳で昌平校に入り、成績優秀なために異例のこととして、詩文係(助教授)に任命されました。安政6年(1859)大村に帰り、五教館の学頭(助教授)になったのがわずか21歳でした。

文久2年(1862)には大阪に行き、昌平校時代の三秀才といわれた松本圭堂、岡千仭(せんじん)と共に雙松岡塾(そうしょうこう)を開きました。わずか半年ほどで取りやめ、大村に帰り、功により文久3年(1863)五教館の校長(教授)に昇進し、渡辺昇楠本正隆らと論議を重ね、勤王思想を広めることに力を注ぎました。国内では、長年続いた鎖国をやめ開国をするなど騒然とした時代の中、これまでどおり幕府についていこうとする佐幕派と、天皇を中心とした政治を行おうという勤王派、さらに幕府を倒して新しい政府を築こうという倒幕派が存在し混沌とした時代となっていました。大村藩内でも意見が対立し、藩の将来について激しく議論されていました。こうした中、倒幕派として行動したのが三十七士でした。

慶応3年(1867)正月3日、城中で行われた謡初め(うたいぞめ)に出席した飯山は、その帰り道に佐幕派の藩士に自宅前で切られ、29歳の若さで命を落としました。この事件は大村騒動と呼ばれ、結果、藩論は倒幕にまとまり、幕末・維新で大きな活躍をすることとなります。飯山はその中心人物としてその功績が高く評価され、のち従四位を贈られ、吉田松陰とともに靖国神社に祭らています。飯山が暗殺された上小路の自宅前には遭難の碑が建立され、大村騒動の関連の場所として顕彰されています。

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