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更新日:2016年1月1日

1-4玖島(くしま)城跡

平成23年3月時点の情報です。

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夕日に照らしだされた遺構に往時をしのぶ

美しい曲線の石垣が現存

玖島城は大村藩初代藩主の大村喜前(よしあき)(日本初のキリシタン大名である純忠の子)によって慶長3~4年(1598~1599)に築かれました。その頃、豊臣秀吉が死去し、国内は再び争いが起きそうな気配がありました。喜前は、それまで住んでいた三城城では、大砲や鉄砲を使う新式の戦いにおいては守りが弱く、もっと堅固な城が必要と考えました。かつて朝鮮出兵で三方が遠浅の海に面した順天城(じゅんてんじょう)に立てこもった際に、守りやすかった体験を生かして、順天城と同じように三方が海に面する玖島の地を選んだと伝わっています。

当初の玖島城は北側を大手(正門)とし、自然石を用いた野面(のづら)積みの石垣でした。2代藩主・純頼(すみより)が大改修を行い、大手を南側に移し、石を加工する「打ち込み接(は)ぎ」工法で高く反り返った石垣を築きました。この大改修の際、喜前が親しかった加藤清正の指導を受けたといわれます。いまも大手口から板敷櫓(やぐら)のほうに向かって、美しい曲線の石垣が残っています。

玖島城は天守閣を持たず、本丸には館(やかた)づくりの屋敷がありました。現在は歴代の藩主を祀る大村神社があります。

玖島城には、本丸を中心に大小5つの櫓(敵の見張りや射撃のために一段高く造られた建物)と、板敷櫓台があったと伝わっています。また、周囲には角堀(かくぼり)、長堀(ながぼり)、南堀が備えられ、本丸と三ノ丸の間には大きな空堀(からぼり)が巡らされていました。

玖島城跡と花菖蒲

御船蔵(おふなぐら)と新蔵波止(しんぐらはと)

城の西側には、藩主の船を納める御船蔵、米を貯蔵するための新蔵、その積み下ろしをする新蔵波止が造られ、その跡がいまも残っています。

御船蔵は、城が造られた当初は城の南側にありましたが、4代藩主・純長(すみなが)のときに現在の場所に移されました。当時は3本の船渠(せんきょ=ドック)をまたぎ、屋根がありました。船渠と屋根柱の基礎が現存しています。海へ突き出た石組みの船渠と樹叢(じゅそう)が夕日に照らしだされる光景に、往時がしのばれます。

新蔵波止は貞享(じょうきょう)3年(1686)、幕府から官米3000石を預かることになり、その荷揚げのために造られた波止場です。1俵が約60キログラムとして、3俵で1石とすると、3000石の米は540tもの重さになります。

玖島城は一度も戦火にあうことなく、江戸時代を通じて大村藩の中心でありつづけましたが、明治4年(1871)の廃藩置県によって、その役目を終えました。現在は桜や花菖蒲の名所として、県内外から多くの人が訪れる憩いの場となっています。

玖島城跡とオオムラザクラ

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大村市教育委員会 文化振興課

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