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更新日:2016年1月1日

1-1大村藩勤王三十七士の碑

平成23年3月時点の情報です。

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日本の近代化に大きな役割を果たす

国のしくみを改める倒幕運動

幕末、アメリカのペリーが浦賀に来航し、200年以上続いた日本の鎖国政策は終わりを迎えました。開国による混乱が始まると、力のない江戸幕府では欧米の国々に対抗できないと考えた人々は、幕府を倒して新しい国のしくみを整えようと行動を起こしました。その中心となったのが、薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)でした。土佐藩(高知県)を脱藩した坂本龍馬の活躍もあり、幕府を倒す大きな原動力になりました。

大村藩にも同じように、国のしくみを改めようと考える人々がいました。当時、優れた若者たちは江戸や京都、大坂に出て学問を学んでいましたが、そのころ盛んだった尊王の考え方に心を動かされます。渡辺昇が江戸から、長岡治三郎が京都から帰ってきて仲間を集め同盟を結成し、彼らの家や山田の滝などで会合を開きました。彼らがのちに「大村藩勤王三十七士」とよばれる藩士たちです。

この同盟の中心となったのが、渡辺昇(のぼり)と松林飯山(はんざん)です。同盟の運営に携わったのが渡辺、学問や思想面の指導者が飯山です。

自宅近くで殺害された飯山

飯山は幼いころから神童とよばれ、安政3年(1856)から江戸の昌平坂学問所で学び、秀才との評判を得て若干19歳で学問所の先生になりました。大村へ帰って藩校・五教館(ごこうかん)の先生になり、校長も務めました。

飯山は同志とともに倒幕をめざして力を尽くしていましたが、明治時代を迎える前年の慶応3年(1867)、家の近くの路上で何者かに襲われ命を落としました。この事件をきっかけに大村藩では倒幕の方針が固まり、王政復古、戊辰(ぼしん)戦争に藩が一体となって参加していきます。

飯山が殺された上小路(うわこうじ)には「松林飯山の遭難の碑」が建ち、須田ノ木町には墓があります。また、京都市東山区の霊山(りょうぜん)にも墓があり、坂本龍馬や木戸孝允(たかよし)ら幕末の志士とともに祀られています。

大村藩勤王三十七士の碑

三十七士のその後

三十七士たちは藩の意見を倒幕の方向でまとめ、藩の中心となって活躍し倒幕に成功しました。大村藩の功績は明治新政府に認められ、小藩ながら薩摩、長州、土佐につぐ4番目に高い3万石のほうびをもらいました。このとき新政府からもらった目録(賞典禄)が、現在、大村市立史料館に保管されています。

三十七士のメンバーには、渡辺清(西郷隆盛に認められ新政府軍の参謀となり、明治政府では福島県知事などを務めた)、その弟で剣豪として有名な渡辺昇(坂本龍馬に協力して薩長同盟を成功させ、明治政府では大阪府知事や会計検査院長を務めた)、楠本正隆(明治政府で薩摩の大久保利通に能力を認められ、新潟県令や東京府知事、衆議院議長などを務めた)ら、新しい日本で活躍した人々がいました。

大村護国神社の境内には、日本の近代化に大きな役割を果たした藩士たちをたたえ、松林飯山を筆頭に三十七士の石碑が建っています。

渡辺昇肖像

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大村市教育委員会 文化振興課

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