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更新日:2016年1月1日

1-2天正遣欧少年使節

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日欧交流史に大きな足跡を刻む

ローマに派遣された日本初の公式使節団

市街から長崎空港へ渡る箕島(みしま)大橋のたもとに、南蛮の衣装に身を包んだ4人の少年の像があります。この少年たちが、戦国時代の天正10年(1582)に日本からヨーロッパへ赴いた天正遣欧少年使節です。天正遣欧少年使節は、キリシタン大名である大村の大村純忠(すみただ)、島原の有馬晴信、大分の大友宗麟(そうりん)の名代として、イタリアのローマに派遣された日本初の公式使節団です。

使節に選ばれたのは、島原・有馬のセミナリヨで学んでいた、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人。セミナリオというのは、イエズス会の司祭や修道士を育成するための初等教育機関をさし、小神学校ともいいます。

伊東マンショは、日向国都於郡(現・宮崎県西都市)出身で宗麟の縁者。千々石(現・雲仙市千々石町)出身の千々石ミゲルは純忠の甥で、晴信の従兄弟。原マルチノは波佐見(現・波佐見町)、中浦ジュリアンは中浦(現・西海市中浦)の出身で、ともに純忠の家臣の子でした。また、使節団には大村と諫早出身の2人の少年が、随行員として加わっていました。

少年使節団を計画したのは、イタリア人宣教師のヴァリニャーノ神父です。その理由は3つ考えられます。1つ目は、日本の少年たちにすばらしいキリスト教の教えを見せるため。2つ目は、ヨーロッパの人々に優秀な少年たちを紹介し、日本での布教活動がうまくいっていることを示すため。3つ目は、少年たちを通して、ローマ教皇らからさらなる支援を得るためです。

天正遣欧少年使節顕彰之像

少年使節ブームを巻き起こす

1582年2月、少年使節は家族の見送りを受けて長崎港を出航しました。約8年間の壮大な旅の始まりです。東シナ海を南下してマカオに到着。そこからマラッカ海峡を通り、インドに着きます。さらにインド洋を南下して、アフリカ大陸南端の喜望峰を回り、1584年8月、ポルトガルのリスボンに上陸しました。およそ2年の航海は、難破や熱病、海賊の襲撃など、つねに危険と隣り合わせのものでした。

一行はリスボンを出発しスペインを経て、イタリアを巡り各地で大歓迎を受けながら、ローマに到達しました。そして1585年3月、ついにローマで教皇グレゴリウス13世に謁見しました。中浦ジュリアンは病気のため出席できず、3人での謁見となりましたが、ここでも彼らは多くの人々の歓迎を受け、当時のヨーロッパ社会に日本を強烈にアピールし、少年使節ブームを巻き起こしました。

その後、彼らはさまざまな知識を学び、1590年7月、家族の待つ長崎へ帰ってきました。出発したとき13歳~14歳だった少年たちは、22歳~23歳の青年へと成長していました。

弾圧の中で布教活動を続ける

ところが、帰国したときの日本の状況は、大きく変わっていました。大村純忠と大友宗麟は亡くなり、天下統一を果たした豊臣秀吉がバテレン追放令を出すなど、キリスト教にとって逆風が吹きはじめていました。4人の少年は豊臣秀吉に謁見しましたが、キリスト教徒としてではなく、インド副王の使者として謁見しなければなりませんでした。その後、江戸幕府が成立し、キリシタンへの弾圧がさらに厳しさをますなか、千々石ミゲルは棄教、他の3人はコレジオ(聖職者教育機関)で勉強を続け、慶長13年(1608)に司祭になりました。

伊東マンショと中浦ジュリアンは潜伏して布教を続けましたが、マンショは長崎で病死し、ジュリアンは捕らえられて長崎の西坂で殉教しました。原マルチノは、持ち帰った印刷機でキリスト教関係の本の翻訳や出版の仕事で活躍しましたが、ついにマカオに追放され、その後、日本の地を踏むことなく亡くなりました。

日本初の公式使節としてヨーロッパに渡った4人の少年たち。長い間の徹底した禁教政策によって彼らのことは忘れ去られてしまいましたが、彼らが当時のヨーロッパの人々に日本という国を知らしめたことは、日欧交流史に刻まれる大きな足跡の1つに間違いありません。

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